ミステリーゾーンについてのさして特別な事でもない考察

ミステリーゾーンを最初に観たのは遥か記憶の彼方、そして例のテーマ曲を意識したのはマンハッタン・トランスファーのカバーを聴いたティーンエイジャーの頃だった。半世紀経った今、ケーブルTVでジョーダン・ピールによって再びリメイクされた”トワイライト・ゾーン”

これがとても刺さるものがあった。そしてその新作プロモーションの為なのだろうか?同じケーブルTVのチャンネルでそのオリジナルが全シーズン、全話を毎日放送という暴挙(最高な企画!)がスタートしていたのだ。

ノスタルジー + プログレスは音楽においても他のカルチャーにおいてもコロナ禍の昨今(昨今という位は長く、そして終わりのない様な感覚)、世界的にとても響いているフィーリングだと思うのだけれど、オリジナルのトワイライト・ゾーン(ミステリー・ゾーン)には本来の意味でのノスタルジーしか感じないだろうとたかを括っていたのだった。ことカルチャーに関して信頼を置いている友人から、このオリジナルミステリー・ゾーンが凄すぎるという話を聞いても真面目に観ようともしていなかった。

ところがジョーダン・ピールの新作トワイライトゾーン、シーズン1ラスト回でその認識は吹っ飛ばされることになった。ネタばれになるので詳細が書けないのはもどかしいところではあるけど、その伝説の回はある意味メタ的構造をもった、シリーズの功労者であるロッド・サーリングに、そして彼をささえてそこに携わった全ての人へ向けた愛あるオマージュだったのだ。そこまでの愛の対象たるオリジナルのミステリー・ゾーンって一体どんなだったっけ?HDD容量との戦いになるオリジナルのミステリー・ゾーンへの耽溺が始まってしまったのだった。

WW2への従軍経験とそのトラウマがロッド・サーリングの脚本に多大な影響を与えていたであろう事を知るに、各エピソードの、決して上から目線ではない教訓的なテーマ設定、わかりやすいけど説明過多にはならない演出も個人的に大いに納得するところ。とにかくよくできてる。貪る様に観る毎日。当時日本での放映にあたり”ミステリーゾーン”と邦題がついてしまったのだけど、シリーズは全部が所謂「怖い話」ではない。”トワイライト”という英語の意味は日が昇る前や日没前のあのグラデーションを指していて、決して「怖い」というようなネガティブなニュアンスだけではないどころか”トワイライトエクスプレス”の様にある種のゴージャスさを演出するイメージにも多用されていたりするわけで。

これぞ人間そのものという、欲も嫉妬も弱さもあるごく普通の登場人物が日常と非日常の”あわい”でストレンジな体験をする。悪辣さも欲深さも愛情も良き行いも、それらによってもたらされる結果を、単純に善悪二元論的に断じることはなく悲哀として淡々と。

ということである種の普遍性を持つこのシリーズがその後の界隈に多大なる影響を与えていたことを今更ながらに痛感しつつ思うのはドラマ演出のスピード感が、当時の吹き替えキャストのハマり具合も含めて、コロナ禍の日本にジャストなのではないか?ということ。

怒られてしまうかもだけど、小津安二郎や往年の日本映画のスローモーさを感じたのだった。丁寧とも言えるのか。バチバチのカット割りでめまぐるしい、虚仮威し的演出はもう何か違うなと。

シーズンを重ねることでの失速感どころか典型的米国コメディのオマージュなど、演出の多様さもヒートアップ(形容はおかしい気もしますが)するばかりのミステリー・ゾーン。HDDの増設は必須。そしてBlu-ray化を切に願う。

*スーパードラマTVには感謝しかない

2021.03.18 THU

TEXT BY タカハシマサト 選曲家